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損得の「勘定」と「感情」にみる、女のさもしい泥棒根性考
男の金と女の自立男の金で飯を食い、住居を得、金品を要求したがる女と泥棒の違いが、私には分からない。 「男はATM」と公言する女はもれなく強盗である。男女問わず、人の金に群がり、すぐに奢られようとする者を、ゆすり、たかり、乞食と呼んでいる。奢ってくれない者を「ケチ」と揶揄する者の精神性の方がよほど「ケチ」だと思う。

女子供や後輩連中にたらふく飯を食わせるだけの稼ぎがあることに、男たる者としての自尊心を持つ男もいれば、大盤振る舞いによって場を支配し、自らの優位性を誇示したがる男もいる。男にご馳走されることで女としての優位性を確保したがる女もいれば、金品の授与がなければ男に尊重されていないと嘆く女もいる。

受容と供給のピースが合致している分には文句のつけようもないが、人の好意や思いやりに着目せず、特に何をしているわけでもないのに、生きているだけで労せず得をしたいという「損得勘定」に突き動かされて、無条件にたかろうとする行為には品性の欠片も感じない。

特に、同性である女が男に金品をねだり、財力を根拠に媚びたり擦り寄ったりする場面に遭遇するたび、日頃より思考と実践をもって試行錯誤する「現代女性は本当に自立して生きていけるのか」という命題の壁にも打ち当たる。

私は男に保護されないと生活さえできない女の自立心のなさや幼稚な依存心が嫌いだ。何が男女平等の世の中だ。結局のところ女が仕事に誇りを持ち、自力で稼ぐ喜びではなく、男=保護者の稼ぎで労せず得する「損得勘定」を「女の幸福論」に結びつける男女が現存する以上、両者のフラットな関係性は成立しない。

欲しがったり、与えたり、身の丈以上の贅沢をねだったりする以前に、全員自分の食い扶持くらい自分で稼げ。自力で支払えない飯なら、食うな。欲しい物くらい自分で買え。無理なら我慢しろ。人は飯を食わないと死ぬが、失職や貧困の深刻な社会情勢とは異なるベクトルの位相にある、ただの怠慢より自力で生きる心づもりがないのであればとっととのたれ死ね。

お金の価値観たかる者どもを罵倒したがる私の心情には、個人的なお金の価値観もふんだんに反映されている。お金は生きる上で必要不可欠なアイテムであり、自分の腕でしっかり稼ぐことは常に私の目標でもある。しかし、必要以上にはいらないと考えるのは根本的にお金に無欲であり、欲望全開でお金にがっつくタイプの人間を「みっともない人」と捉えているからだ。

それはおそらく私の育った家が、お金持ちではないにせよ、普通の中流家庭で、特にお金の苦労をした経験がないからかもしれない。東京生まれだから、東京に特にがっつかない状況に近しい。子供に飯を食わせるために寝る間も惜しんで働く親の背中を見て育った子供や、貧乏を疎ましく思う経験をした者がお金に執着し、お金持ちを目指そうとする動機は充分に理解し得る。

手元にある程度の貯蓄がないと不安を覚える人もいる。みっともないと思われようが何だろうが、お構いなしで金品をかき集め、病に伏せる親や故郷で倹しく暮らす十八人家族に送金する人もいることだろう。私は自分のために稼いでいるだけだから、支えるべき人のために稼ぐ人の文句を言えた義理はない。むしろ尊敬する一方だ。

しかし、そうした事情とは異なる根本的な「幸福論」として、男に優遇されることが女の幸福と信じて疑わない女の精神構造を裏付けるものが、自立できないという理由で男にたかるハイエナ根性であるならば、そんな幸福ほど貧しいものはない。女が男の庇護の元に管理され、支配される男女性の構造もいつまで経っても変革を遂げない。

女が屋根を求め、傘を求め、飯を求める庇護が、それ相当の労働や役割分担との等価交換ならば、契約は成立するのだろう。だが、女を食わせてなんぼと考える男の自尊心に甘える女が、女の自立の放棄を促進していることも事実である。ゆえにその「幸福論」は男女平等の意識のうえでは、不幸だ。

奢りと父性このように、さもしいハイエナ女を容赦なく馬鹿にしている私だが、駆け出しの若手だった時代も、現在も、仕事でお世話になっている先輩方や仲間たち、友人・知人にご馳走していただく機会は多々ある。殊、マンスリーマンション暮らしを始めたここ二カ月は、男女年齢問わず、たくさんの方々がこぞってご馳走してくださるという大変ありがたい事態に見舞われている。

無論、こちらからおねだりしたことはない。毎晩自分の飲食代を支払う現金を持って飲み歩いているにも関わらず、結局すっかりご相伴に預かっている状況を鑑みると、ライフワークが自画自賛である者として、私がいい女だから男たちが奢りたくなるという節を自ら推したいところだが、残念ながら事態はそうした男女の下心フレームには落とし込まれない。

毎晩よちよち飲み歩く私を抱擁するものとは、女子供や後輩に優しく、面倒見のいい、懐の大きな男たちの「父性」である。

娘のように、妹のように、「ナガコの酒代ごとき俺が払ってやるよ」とか「ご馳走してやるからおまえはもっといい酒を飲め」とか、お父さんのごとくの「おまえ呼ばわり」を頂戴すると、どういうわけか安堵する。

若い頃は男の上から目線も「おまえ呼ばわり」も大嫌いだった。女だからという理由で対等に扱われないことに腹を立て、十歳も二十歳も年上の大年輩に「男性ホルモン打って、整形手術でおちんちんつけて来たら一人前の人間として認めてもらえますか」と迫った。よく知らない人に奢ると言われた時には、「私は泥棒ではないので自分のご飯代は自分で払います」と宣った。

そんな私がまさかの「おまえ呼ばわり」に安堵するようになった原因には、前回述べた通り、ファザコン一直線だった私のアイデンティティに大打撃を与えた父の死および「父性の欠落」がある。私の周囲の男たちは、類い稀なるセンスと手腕でしっかりと稼ぐ、頼もしい男たちが多い。しのぎを削る仕事の第一線で培った胆力と包容力がある。一緒に居るだけで安心感を覚える。

そうでもない男も腐るほどいるが、なぜか私にご馳走してくださる面々は筋の一本通った、昔気質の男気溢れるいい男たちである。尊敬して止まない益荒男に愛でられる私はやはりいい女であるか、ナイスなキャラクターの持ち主であると、結局、自画自賛に舞い戻る癖はこれくらいにして先を急ぐ。

「勘定」と「感情」のレイヤー構造ご馳走してくださる好意や配慮は大変嬉しい反面、なんだか申し訳ないような、心苦しい心境にも陥る。このアンビバレントな感情の発露はどこにあるのか。よくよく内省してみれば、「奢る・奢られる」の構造には損得にまつわる「勘定」と「感情」の両レイヤーがあり、前者にはそもそも抵抗感を抱き、「父性の欠落」にかかる後者は安堵するという二分された自意識を改めて知る。

「損得勘定」の意味合いにおいては「奢ってもらえてラッキー」とは全く思わない。私は彼らが金を稼ぐために、現状の地位を築くために、どれだけの努力と労力を要して来たか、身に染みて理解している。尊敬している方々だからこそ、金品と共に安堵の感情を奪取するゆすり、たかり、強盗にはなり下がりたくない。何より、百円だろうが百万円だろうが、他者である自分が他者の財で得をするわけにはいかない。

欲しい物など、自分で買えばいい。買える稼ぎがあること自体が喜ばしいから、物の獲得も支払いの行為も自分へのご褒美に他ならない。

その好機を自ら放棄して、敢えて男に買わせるのは、私に言わせれば得ではなく、損だ。

そもそも男に買ってもらいたい物など何もないので、「俺の稼ぎで女を喜ばせる」ことに自尊心の焦点が当たっている男の欲望を叶えてあげられない点が申し訳ない。デートでおねだりしたことが一度もない自分のポテンシャルを鑑みるに、極度の「甘え下手」とも言えるため、もっと可愛らしく、上手におねだりする練習をした方が良いのではないかと、柄にもなく思うこともある。

ご馳走してくれる男性諸君も、奢ってもらおうとしていない私に奢るのは、相当つまらないのではないか。女に黄色い声で「奢って!」とせがまれて「まかせろ!」とか「しょうがねえなあ!」とか、甘える女と女の甘えをいつ何時も許容する構えにある俺という構図をアピールするやり取りを堪能したいはずなのに、ものすごくぶっきらぼうに「え、いいんですか。なんか申し訳ない」と返す女とは、さぞや奢り甲斐がないことと思う。

不意にプレゼントを頂戴したり、ご馳走してくれたり、好意をもってもてなしてくれるようなら、その心が素直に嬉しく、「ありがとう」と謝辞を述べるのだが、その謝辞は好意の授受である「感情」の交流に関わるものであって、金品をただで頂戴した「損得勘定」には掛からないことをどうしても説明したくなる。それは女の自立を真剣に実践したい私の頑な意地、あるいは「たかりはみっともない」と捉える見栄っ張りの素養の仕業だろうか。

愛と信頼のもたらすストレスフリーつまり、本筋通りの損得の「勘定」と、労せず得だけしたい欲望や優位性の顕示、私の場合は安堵といった「感情」が渾然一体となって「奢り=ラッキー」「奢り(男・年輩)=当然(女・後輩)」と簡略化して認識されている状況に違和を感じるのだ。

なぜ、当然のごとく奢られようとする女が存在するのか。違和や戸惑いやストレスを感じないのか。女子供や後輩に奢る行為を何とも思っていない男にしてみれば、奢られたがる女をたかりと呼んで目くじらを立てる私など、ややこしいことを抜かすうえに全く可愛くない女ということになるだろうが、だからと言って奢られることにもそれを強要する行為にも何とも思わない女がいることが解せない。

他人事はさておき。私に限っては、この違和のストレスを軽減させるものが、稼いでいる実績があるからこそ気前よく支払う奢り上手な男のスマートな対応と、たかだか構造の及びもつかない私と男のパーソナルな心の交流である。

「おまえと酒飲んで楽しかったから奢らせろ」と、私と過ごした時間を慈しんでくれたという理由でご馳走してくれた際には、さすがの私も喜びでいっぱいになり、ぶっきらぼうを封印し、嘘偽りのない満面の笑みで「ありがとう」と言える。そう言わせてくれるストレスフリーな猛者たちは、何度も言うが、世界中に自慢したいくらい、いい男だ。

「おまえ呼ばわり」も同様に、彼らの「おまえ」には愛情と敬意がある。これまで築き上げて来た信頼関係の賜物であり、親密になったからこそ愛しい乱暴な「おまえ」が、私の中の父性の欠落箇所を上手にくすぐり、癒す。

誰彼かまわず無条件に「おまえ呼ばわり」のうちに見下さないと生きていけない下衆な小物には用がない。私の大好きな方々の「おまえ」に便乗して、よく知りもしない私を「おまえ」と呼ぶ狼藉者には、不愉快という理由につき頭突きを食らわせ続ける所存である。私の「おまえ」は、おまえごときの口の端に乗せられるほど安くない。

一方、私も、いい男たちの父性に安く甘えてばかりいるわけにもいかない。大好きな男たちに死んだ父親の代償を求め、欠落を補填するような、無礼千万な真似を容易には働けない。母親の役割を他者の女に求めるマザコン同様、人間の個を尊重せず、理想の型に嵌めたがる欲望の強制は、人を人とも思わない、人非人のみの成せる業である。

私は欠落を受け入れ、傷を自浄しなければならない。いかに代償を求めようとも、自力で克服しなければ根本的な解決は導けない。また、金銭面でも、やはり私は自立した生活を維持したい。日本の経済情勢を鑑みるに、男に面倒を見てもらわないと女が生きていけない時代は当に終わりを迎えている。奢りの猛者も一定層の世代まで、以降は絶滅危惧種と化していく。

依存する屋台骨がない以上、依存気質の残骸は何の役にも立たない。飯も物も屋根も自力で獲得する以外にこの世をサバイブできる方策はない。共生や助け合いの感覚以前に、「女だから」という理由で男に奢りを強要する前時代的かつ幼児的な泥棒根性とは、今となっては思い上がりや慢心を意味する「傲り」と同義である。

このご時世に絶望や不安を抱く女性もいることと思うが、当の私は、この先どうなるか皆目検討もつかないサバイブ、超楽しそうと考えてワクワクし通しである。どうせ死ぬ人生、真面目に愛して、常に自力でスキルアップを試みて、RPGのごとくの毎日を果敢に大冒険したいという欲望に突き動かされて生きている。

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